まず、現実の話をすると決まって、「実はここは仮想世界の中なんだよ」、「ホログラムでね、夢みたいなものさ」、「脳が電極につながっていてね」という主張がある。
私はこれらについての主張には完全に否定的で、なぜなら現実とは、その者の目の前に広がっている世界を現実と呼ぶのだと考えているからだろう。

現実認識能力の話をすると決まった反論が幾つか考えられるので、それについて書いていこうかなと。前回の補足みたいなものです。

チルットのキラキラが来た

コインの優先順位:
パス > バッグ > アバター

やっぱgoは初動でやらんとダメだな。
はやく100%ゲットしてコインをバッグ拡張に当てたいんだけど、レイド来てからその余裕が全然ない。

これを過ぎればタツベイとえっと、なんだっけ。メタグロスのやつを捕まえる機会が減りそう。

そういえば、地方キャンペーンいつまでだっけ。2/13か

これは脳そのものというよりも体全体の総合機能を指すが、最も、とてつもない能力は現実認識能力だろう。
おおよそ、すべての生命はこの能力を持つが、つまり、すべての生命はそれだけでありえないほどの神秘と力を有しているのだと思う。

よくわからんが、私の考えで言うと、コンピュータは脳の性能よりも遥かに劣る。
もちろん、総合的な能力のことで、脳は総合的な能力が圧倒的であり、圧倒的過ぎる。人間が認識しイメージしている以上にありえない程の能力を有している。コンピュータなど比較にならない。

「脳=コンピューター」という比喩が、脳科学の発展を妨げているかもしれない wired.jp/2017/07/29/brain-meta

すべての人にとって、自分であり続けることほど重要な事はないのだと思っている。それは、天才になることよりもよっぽど偉大で、意味があるものだと思う。
世間から天才と呼ばれることなどには対して意味がないし、価値もない、と私は思う。
それは他の人達からどう見られるかという話であって、それは自分自身ではないのだから。

といっても、天才日課の本は役に立たないかというと、そうでもないとは思うけど、参考になる...かもしれないし、分からないけど。
ここで言いたいのは「天才は在るものであって、成るものではないのでは」ということだと思う。
結果として、世間的に天才と呼ばれはしたが、その人物は、やっぱりその人物だったし、真似できるものではないんじゃないかなと。

なので、個人的には「天才たちの日課」というようなタイトルの本はあまり読みたくないし、また、それに何の意味があるのかわからない。
このような話題の上で、私が読みたいタイトルを今考えるならば、「自分であり続けろ」というタイトルの本を読みたい。
いや、これは自己愛とかそういうのではなく、すべての人にとって。

なぜなら、彼らがやってきた時代には「天才たちの日課」という本はなかったし、彼らがそれを読みふけり、実践したとは到底思えないから。
彼らは、多分、単に自らのやり方でやっていたに違いなく、後々語られることがあったにしても、だからこそ、内容的に千差万別で時に個性的なんだと思う。

ここで、私がどのように見ているのかというと、天才は天才であり、正確にはその人物はその人物であるというような見方をする。もし彼らが「自分は天才と同じような日課をこなし天才になろう」としていたなら、彼らは多分、非常に平凡な人生を、世間的な意味合いで天才と呼ばれるに程遠い人生を歩んだに違いない。

タイトルからして「天才たち」という言葉はどうかと思うし、それは一種の区別であり、私は基本的には区別があまり好きではないので、そういった本は読まないのだけど、しかし、そういったものを読む人もいるのは面白い。

次に、天才たちの日課という読書感想の記事を読んだ。
これについてはちょっと笑ってしまった。
私は基本的に「昔はそんなもん無くてもやっていただろう」というような考え方をするが、ここではその考え方と非常に関連がある話になると思う。

この世界を全てだとするならば、この世界は存在の世界なのだろう。

そして、この結論に何の意味があるのか、その答えに何の価値があるのかというと、何の意味もないし、何の価値もない。
ある事実があったとして、本来的にその事実は単なる事実に過ぎず、そこに意味や価値があるわけでは全くない。
では、それが何かに役立てられることがあるのかというと、そうでもない。
最も大きな概念というものは、大抵、私たちの細かな日常にとって、それを知っていたからといって利益をもたらすものではないし、有利になるものでもない。
哲学は、思考にとって娯楽の一つとしての面白さはあるものの、しかし、それはことさらに有効な意味を持つものではない。
つまり、そういうことよりも、好きなように生きることの方がよっぽど生あるものにとって重要なことだと私は思っている。